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萱野稔人『国家とはなにか』以文社、2005年

気鋭の哲学者による、スリリングな国家論。

著者は1970年生まれ、パリ第十大学で哲学の学位を取得し、左翼系知識人と目されている。上記本の存在は以前から知っていた(朝日の書評で柄谷行人が取り上げていたと思う)が、興味を持ったのは2006年7月、マル激での宮台真司・小林よしのりとの対談を見た(聞いた)ときからだ。

本書は7つの章で構成される。1~3章は国家の成り立つ仕組みについての概念的な論考、5~7章は同様のテーマの系譜学的な論考、中間の第4章は既存の国家論のレビューを通じて本書の立場がより鮮明に表される。

はじめから順に読んでいった。詳しい内容は省略するが、簡潔にまとめると、国家という概念を「暴力の集権組織」という観点から整理し、返す刀で既存の国家論、のみならず国家と資本主義の関係についての従来の左翼的理解を切っていく。

以上が本書全体を通じて示されていくわけだが、正直な話、1、2章を読んでいるときは「まあそうかな、そういう説明もありだよね」程度の感想しか持てなかった。

しかし第3章「富の我有化と暴力」において、税の徴収メカニズムが説明されるあたりから少し印象が変わってくる。「そういう説明もありだよね」程度ではない、大きな理論的インパクトをもたらす論考なのではないか。そのように思えてくる。

「方法的考察」と題された第4章を経て、第5章以降の系譜学的考察においてその印象は決定的となった。国家とは、人間が「暴力」と無関係でありえないがゆえに生じる不可避の運動のことであり、特定の生産様式や「国民」という幻想によって生じるのではなく、それらに先立って一気に成立するものだ、ということが示される。

本書末尾では、国家と資本主義の入り組んだ関係が暴かれる。近年における公理系の「全体主義的縮減」に対抗する実践的論理として、公理系のレベルでの闘争・討議が提起される。公理系という用語はドゥルーズからのものらしいのだが、僕の(浅はかな)考えでは、これは「依然として歴史は終わっていないし、思想も死んでいない、さらにはイデオロギー闘争も無効ではない」という主張ではないかと思う。この結論については、(そのインパクトを重く受け止めた上で)現時点では評価を保留しておきたい。

最後に、若干気になる点。僕自身が面白いと思ったのは、ほぼドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』(それも500ページ付近に限定される)の引用・解釈のみで論理展開がなされている箇所だったこと(もちろんそうした論理展開の背景には幾多の文献があり、著者もそれを踏まえているのだろうが)。まあだからといってこの本の面白さ・インパクトが減じるわけではないだろう。ドゥルーズは有名だが、そこからこのような議論を引き出した、ということこそが重要なのだから。これを期に、あまり馴染みのなかったドゥルーズ=ガタリを読んでみようかと思う。でも、引用されている文章を読む限り、自力で読破は難しそう…。
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「不思議なことに、経済学とビジネスがモダニティの最後の砦となった。書物には著者が、建物には建築家が、憲法には起草者がいる。我々はそうした作者の意図を斟酌し、その意図に関する知識が書物、建物、憲法の理解に役立つと考える。我々がテキストと同様にその著者について学び、テキストだけで十分だというポストモダニストの主張に抵抗を感じるのはそのためである。だが、経済システムに設計者などいない。学ぶべきテキストしかないのである」(ジョン・ケイ『市場の真実』佐和隆光監訳・佐々木勉訳、中央経済社、2007年:312ページ)

市場経済批判はもちろん議論の上で生産性を持つこともあるが、的をはずした批判や単に毛嫌いする論調も多いように感じてきた。なぜそんなに嫌われるのか。これは自分にとって一つの謎であったのだが、上記引用部を読んで、なるほど、と思い、謎の一部が解明されたような気がした。市場経済を毛嫌いする人は、ケイが指摘した事実すなわち「市場経済における著者の不在」にこそ、問題を感じているのではないか。つまり、貧困や社会的不平等といった諸問題よりも、むしろ、それらを含めたあらゆる経済現象が著者のいないシステムの上に成り立っているという事実の方にこそ苛立っているのではないか。それゆえ自称モダニストは、市場経済の原理的否定に流れがちになる。

ここで、希代のポストモダン論者(?)である東浩紀氏の見解を見ておこう。少し長い引用になる。

「しかし、すべてのひとにつねに『主体的』であれ、とする要請は、はたしてどれほど現実的だろうか。筆者がここで述べたいのは、真の意味で『人間』になれるのは少数のすぐれた人物にすぎず、圧倒的多数は動物性を抑えこむのに失敗する受動的な存在である、といったエリート主義ではない。問題は『すべての』にではなく、『つねに』のほうにある。筆者は、その能力がどれほどのものであれ、ある人物がつねに主体的であることができる、という想定にこそ違和感を覚えるのだ。
(中略)
私たちはフルタイムには人間でいられない。ひとは、特定の関心領域においては人間的な主体として行動するが、それ以外の多くの場面では、動物的な消費者として既存の選択肢にたやすく従ってしまう。そして、ひとが『主体になる』領域は各人で異なる。ハッカーは反グローバリズムにはまったく興味がないかもしれない。運動家はマクドナルドに抵抗感がないかもしれない。マクドナルドを嫌悪するひとが、ハリウッド作品しか観ないかもしれない。インディーズの映像作家が、著作権の管理にはうるさく、ハッカーとクラッカーの区別もつかないかもしれない。この複雑なポストモダン社会では、それらすべてを横断し、どの領域においても『人間的』になれるような確固たる知的な位置(第三者の審級)は存在しない。
かわりに私たちが出発点とすべきなのは、内なる動物性を克服し、トータルな人間へと上昇する弁証法的な人間像ではなく、怠惰で動物的な消費生活のなかにパートタイム的に『活動』を点在させる、断片的でポストモダン的な人間像である」(東浩紀『情報環境論集 東浩紀コレクションS』講談社、2007年:153-156ページ)

すべての領域で「主体的」「人間的」にはなれないのが現代の生の形式である、というのが東氏の基本認識である。ここで市場経済が(部分的、条件付ではあるが)肯定されていることは明らかだろう。

私たちの社会は、私たちを取り囲む生産物やコミュニケーション、社会制度の「著者」を見る(あるいは見つける)ことのできない段階に入りつつある。そのことをどう考えるのか。単に市場経済を拒絶していれば済む話ではないはずだ。
 
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