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小熊英二『単一民族神話の起源 〈日本人〉の自画像の系譜』新曜社1995年

同じ著者の『〈日本人〉の境界』を読んだときもそうだったが、人はかくも時代に翻弄されながら考え・行動せざるをえないのか、と思わずにいられない。けれども、それは必ずしも全面的な悲観ではない。時代による翻弄は、あとから見れば、奇妙な可笑しさを誘いもする(「なぜそんなことに必死だったのか?」)。無論、「あとから見れば」というのは文字通り「後付け」の評価にすぎないのであって、当事者にとっては可笑しいだけでは済まない。

すでに国家規模でも人口減少基調に入り、またこれまでの実態を見るに、今後、日本は、少なからぬ他国籍の人びとを受け入れていく(べき)だろう。それは、幻想としての「単一民族国家」からの離陸だ、とつい考えてしまう。しかし事態はそう単純ではない。厖大な資料に裏づけられた小熊の論証は、「単一民族国家」概念の「用いられ方」を、時代、場所ごとに整序していく。「単一民族国家」は、他民族を取り込みながら膨張していった「大日本帝国」の凋落が確定的(現実)になったときに生じた、国家規模でのアイデンティティ・クライシスを、隠蔽するための概念だったのである。

小熊は、過去の資料を読者に読みやすい形で提示する、という姿勢にあくまで徹している。それゆえか、見た目の印象(本の厚さ)に比べ、はるかに読みやすかった。

小熊自身があとがきで述べているように、この本の隠れた主題は「他者との共存」である。小熊は「異なる者との共存に必要なのは、神話ではなく、少しばかりの強さと叡智」と述べる。しかしこの「少しばかり」が、どれほど困難なことか。
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木原善彦『UFOとポストモダン』平凡社新書2006年

どこかのブログで薦められていたので、読んでみた。

僕自身は、UFOに大いなる興味を抱き10代の頃からそれに関する本を読み漁ってきた、というようなことは全くない。
けれども同世代の人たちの多くがそうであるように、10代になったばかりの頃にはUFOに関するテレビやマンガが少なからず周囲にあったし、それなりに面白がり、ときには素朴に信じもした。

この本は、UFO実在の真偽を問うのではなく、UFOをめぐる言説やメディア状況の移り変わりを、大澤真幸の「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」の三区分に対応させて論じている。
随所でドゥルーズ、デリダ、リオタールなどの思想家が(ごくごく簡単ではあるけれど)紹介されており、そちらに関心のある人にとっても楽しめると思う。

面白かったのは、UFOの「空とぶ円盤」という一般的イメージが、偶然の誤報(誤読)によって生じた、という点だ。
UFOは生きたパロール(声)ではなく、死んだエクリチュール(書き言葉)によって表現される。
エイリアンの「灰色の肌」は、人種的属性をほのめかしつつもいかなる人種にも属さないという点で象徴的だが、同時にそれは「死者」を想起させる。
現在(1995年以降)では、しかし、エイリアンは灰色の肌をもつ死者ですらない。
それは虫(バグ)や魚類(スカイ・フィッシュ)であり、メディアに媒介されて存在し、われわれに極度に近接する。
かくしてエイリアンは、白人男性→灰色の肌をもつ死者→虫・非哺乳類、というように、退化の道をたどってきた。



さて以下は本とは関係ない話。
前回のエントリに対し、しみずさんから鋭いコメントがきました。本業の研究のほうはどうなの?と。
この点については近いうちにレスポンスします。

(ただし一点だけ今言っておきます:研究内容とブログのエントリを連動させようということを、僕はそんなに意図していないのです。)
 
見田宗介『現代社会の理論』岩波新書1996年

以前、図書館で借りて読んだ。それ以来、いつか買おう、と思い続けて幾年月。
最近ようやく買った。以下簡単にレビュー。

見田は、消費‐情報社会としての現代社会がもつ「正」と「負」を一望できる視点を、提示しようとする。現代社会の「ゆたかさ」に居直る理論も、その「影の部分」を強調する理論も、一面的なとらえ方でしかない。

(現状分析もひじょうにおもしろいのだが、ここではカット)

結論は、収奪のない消費=「奢侈、消尽、燃焼としての消費」を、「美としての情報」によって実現せよ、である。それは「必要の地平」から離陸した消費‐情報社会を、「生の充溢と歓喜」へと着地させることを意味する。

以下は読書ノート(本の要約)から引用(少し修正あり)。

バタイユは、奢侈、消尽、燃焼としての〈消費〉概念の原的な根拠として〈至高なもの〉を見出した。至高性とは、あらゆる効用と有用性の彼方に出現する、自由の領域であり、彼は「ある春の朝の、貧相な町の通りの風景を一変させる太陽の燦然たる輝き」を例にあげている。これこそが〈消費〉のもっとも純化された形態であり、収奪なしに享受しうるほとんど唯一の消費体験である。収奪が終わるとき、他者や自然は、初めて、他者そのものとして、自然そのものとして存在し始める。

(以下雑感)
この結論の優れた点は、現代社会の手前に立ち止まるのではなく、その果てにおいて可能な社会像を提示している点である。
われわれは、目のくらむような消費と情報のあふれる現実から、目をそらすべきではない。むしろそれを徹底的に・かつ・うまく「利用」することこそが重要なのだ。

しかしそれでも、われわれはいつでもすでに、情報によって拘束されてもいる。
東浩紀の提示する「人間的/動物的」という二層構造は、このパラドキシカルな状況を説明する有効な理論のひとつだろう。
 
オックスファム・インターナショナル著
日本フェアトレード委員会訳
村田武監訳
『コーヒー危機 作られる貧困』筑波書房2003年

コーヒーを飲みながらこのレビューを書いている。

コーヒー危機とは何か?
多国籍企業の支配のもとで、途上国が一次産品生産へと特化させられるなかで生じる、生活と産業の危機。さしあたりこんなふうに理解しておくことができる。

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「コーヒー危機」の要因は、近年におけるコーヒー豆価格の乱高下である。背景には、生産拡大および需要停滞による、供給過剰がある。過剰基調のもとでの、1989年の市場管理機能停止―国際コーヒー協定(ICA)の破綻―が、価格の乱高下を呼び込んだ。
この影響を受け、コーヒー生産現場の途上国農村では、出稼ぎの拡大、食料の不足、教育・医療サービスの低下、季節労働者の条件悪化などがおきている。

本の後半部では、「希望の光」としてフェア・トレードがあげられる。フェア・トレードの機能、生産者への十分な支払い、環境負荷への配慮、多大なマージンを得ている焙煎企業への圧力は、一次産品生産に特化させられている途上国と、先進国の消費者が「つながる」ための有効な戦略なのだ。…

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このエントリを書くにあたり、アマゾンのレビューを簡単に眺めてみた。
アマゾンでのレビューの内容は、言葉ごと借りてひとことで述べれば、「知らないことが多すぎる」というものである。
ふだん、何の気なしに飲んでいるコーヒーは、実は、多数のコーヒー生産者や生産地を犠牲にし、焙煎企業の独占的支配のもとで、われわれの手元まで送られてくる(それはふつう知られていない)、というわけだ。

ただし、最近ではフェアトレードに関する情報が多くみられるから、この本で述べられている内容は、必ずしも「知らないこと」ではないかもしれない。

しかしここで気をつけるべきなのは、「ふだんの何気ない行動や習慣の背後には、われわれの知らない『不正義』や『ごまかし』、不合理な『犠牲』が満ち満ちている」という語り方(枠組み)が、環境問題や人権問題などを語るときのステロタイプになっている、という点である。

事実としては、たしかに、上述のような問題構造が存在する。
たったいまここで私が飲んでいる一杯のコーヒー(のために使った豆)は、実は、苦しい生活のなかで心身を痛めつけて生きてきた、世界のどこかのコーヒー生産者が、力を振り絞って人生最後の日に摘み取ったコーヒー豆であるのかもしれない。こうしたことを「知る」ことは非常に重要であり、知らないよりは知っているほうが、世界をよりうまく/適切に理解することに近づけるだろう。

けれども、ここで、「知る」とはどういうことか? という問いを発してみよう。
「知る」、そして「知っていることを語る」ことには、常に、ある制約が伴っている。「すべてを知る(語る)ことはできない」という制約が、である。言い換えれば、何かを知る/語るときは例外なく、「ほかの何か」を知り/語り損ねている。この「ほかの何か」は、原理的に認識しえない。(追記:こうしてわれわれは、常に何かを「知りすぎて」いる。あるいは「知ったような気になって」いる。)

とすれば、何ごとかを認識するときの基本姿勢は、次のようであるべきだ。「知っていることが多すぎる」、これである。何かを知り/語るとき、常に、(ほかの)何が知り/語り損ねられているのか、という問いを発すること。

環境問題・人権問題を語るときのフォーマットという感すらする、「ふだんの何気ない行動や習慣の背後には、われわれの知らない『不正義』や『ごまかし』、不合理な『犠牲』が満ち満ちている」という語り方は、それゆえ、半分の有効性しか発揮しえない。あと半分は、「それでもわたしは何を知らないか」という問いによって、補われなければならない。
 
前のエントリの最後で「次回は本の話を…」を書いたけれど,またちょっと関係のない話を。

今まで使ってたテフロン製のやつが結構古くなっていたので,土曜日に思い立って鉄製フライパンを買いに行った。無○良品にて1800円で購入。底が平らな(いわゆる普通の)フライパンと,中華鍋ふうに丸っこいやつがあって少し迷ったが後者に決める。
次の日さっそくぺペロンチーノをつくるのに使ってみた。底が丸くなっているので少しの油でニンニクを浸しておける。何より今までと違うのは火力の伝導。中火でぼんやりしているとすぐにニンニクが焦げる。スパゲティを入れてからも,よわめの中火で事足りる。
使用前・使用後に少し手間がかかる(さび・焦げ付きを防ぐため)けれども,炒め物系には重宝しそうだ。

さてなかなか本の話に入れずにいる。
今週読む予定で,レビューの対象にしようと思う本をあげておく。

・町田康『告白』
・矢作俊彦『真夜中へもう一歩』
・椎名誠『アド・バード』
・吾妻ひでお『失踪日記』(既読)
・ジジェク『否定的なもののもとへの滞留』
・レヴィナス『全体性と無限(上)』

新旧・ジャンルともに入り乱れているし,ジジェク・レヴィナスに関しては読みきれるかどうか甚だ疑わしいけれども,とりあえず。
 
所用でさいたま新都心へ。
本来の用事は途中で退席してジョン・レノンミュージアムに行ってみた。

これがなかなか。
歌詞の書かれたメモパッド,Tシャツ,小学校時代の成績表。
オノ・ヨーコとの活動の記録。
最後の展示室への通路に浮き彫りされた「1980.12.08」。
久しぶりにいいものを見れた。よかった。
ショップで携帯ストラップを購入。

最後の展示室には大きな透明パネルが設置されていてレノンの言葉(歌詞やおりおりの発言からとられたもの)がちりばめられていた。それらの言葉は,前回のエントリとの関連で言えば,「味があって湿った言葉」ということになる。この「味があって湿った言葉」は,確実に,こちらになにものかを訴えてくる。

しかし,このブログでは,「無味乾燥な語り口」を用いる。レノンミュージアムで遭遇したような「味があって湿った言葉」を個人的に好まないとか,そういった理由からではない。後者によってしか語りえないものがあるのと同様に,前者によってしか語りえないものがある,と考えるからだ。

言葉とは,それ自体ではない何物かを伝える機能のことである。例えば「犬」という言葉は,「イヌ」という言葉の響きや「大の右上に点」という文字の構造とは本質的には無関係に,この犬やあの犬,あるいは概念上の犬を指し示す。

粗雑に整理すれば,「味があって湿った言葉」がこうした無関係性を被い隠すのに対し,「無味乾燥な言葉」はそれ自体によってこの無関係性を表現する,と言える。「無味乾燥な言葉」は,言葉が,つまり人間の理性的営みが,どのような努力や工夫の果てにも,ついに「現実」に到達することがない,という事実を表現する。言い換えれば,「無味乾燥な言葉」は,「語りえないものがある」ことを指し示すのである。

これはどう考えても矛盾である。言葉が,言葉によって語りえないものを指し示す,というのだから。しかし,この矛盾は,意識的であれ無意識にであれ,日々われわれが用いている言葉に内在する矛盾である。われわれは常にすでに,その矛盾を「生きている」。

「無味乾燥な言葉」は,このようにして,われわれが日常生活のなかで直面する微妙かつ何気ない事態を,よりうまく説明しうる。しかしそれは常に「失敗」としてしかありえない。「語ること」の「失敗」を通してしか,現実のなにものかを他者に伝えることはできない(と書いているこの文章ですら「失敗」を孕んでいる)。だからこそわれわれは,飽くことなく何百回も何万回も,語る(あるいは語ろうとする)のだ。

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次回は具体的な本の感想を書こうと思います。
 
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