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今日は学会最終日。
後輩の個別報告はうまくいったようだ。拍手。

夕方、「若手懇親会」というのがあったので行ってみた。
各大学一人ずつ挨拶を、ということで、僕が指名されたので、次のようなことを述べた。
「いま、私の所属する研究室は、研究者の育つ環境ではない。ただそんな愚痴を言っても始まらないので、今後は様々な人たちと学的コミュニケーションの場を作ることを重視していきたい」。
有言実行。2006年度は学内・学外のゼミにできるかぎり参加し、色々な人に教えを乞おうと思っている。それでたとえ一年間研究が進まなくてもしようがない、とまで思う。

春休みもあと一週間。
研究室掃除に向けて本や資料を整理しつつ、書きかけの論文を横目で眺めつつ、とりあえず買ってきた本を読もう。
いやその前に明日は花見に。
いやその前にセンバツの日本文理の試合をテレビ観戦。
もしかしてベスト4入りなどということがあるのだろうか…。

春を目前にしての、ざわざわとした期待と、翳り。
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今月末は三日連続で学会。研究者のタマゴの身としては、議論をフォローしきれない部分がどうしても出てくるが、いい刺激になる。特に今日(3月30日)のシンポはよかった。内容云々ではなく、感性的に。客観的にではなく、主観的に。

で、学会に行くと関連の出版社が書籍を売っていて、二割引ということもあり、持って帰るときの大変さも省みずついつい買ってしまう。さらに今回は会場が「本のまち神田」に程近いので、昼休みに古書店へ行けたりするわけだ…。

買った本の一覧
・小原信『われとわれわれ』(中公新書)
・外山滋比古『読書の方法 〈未知〉を読む』(講談社現代新書)
・大島清『食糧と農業を考える』(岩波新書)
・斉藤精一郎『「現代デフレ」の経済学』(PHP新書)
・カフカ『変身 他一篇』(岩波文庫)
・アポロドーロス『ギリシア神話』(同上)
・ルソー『社会契約論』(同上)
以上は古書店でのお買い上げ。新書と文庫ばっかし。
会場で買ったのは
・玉真之介『グローバリゼーションと日本農業の基礎構造』(筑波書房)
・田代洋一『「戦後農政の総決算」の構図 新基本計画批判』(同上)
・佐藤誠・篠原徹・山崎光博『グリーンライフ』(農文協)
・『村落社会研究 No.23』(同上)

あと宇佐美繁著作集も買いたかったが、さすがに重いので、大学で買うことにする。

玉氏の本の1ページ目、次の箇所に目を引かれた。

>「構造政策の絶対化」、「専業農家の絶対化」も、農業の持つ多様な意味を捨象して、国家の要請する食料生産の合理性だけを追求したもので、近代の専門化・細分化された科学が出した演繹的な結論である。私は、この絶対化が総力戦体制によってもたらされたと考えるが、…(以下略)
(玉真之介前掲書、9ページ)

「農業=食料供給産業」という捉え方は(完全に、ではないが)多分にイデオロギー的なのではないか、と考えていたのだが、これは玉氏の認識にかなり近いのかもしれない。読んでみないとわからないが。
ともあれあらかじめ一点だけ私見を。「農業=食料供給産業」を作り出したのは、総力戦体制というよりも、「国家と資本主義」だと言うべきだろう(総力戦体制は一契機にすぎない)。とはいえ現代では、「国家と資本主義」のもとで「農業=食料供給産業」という位置づけすら崩壊しつつある。農業を存続させようと考えるならば、農業と社会をつなぐ「新たな幻想」が求められる(「新たな幻想」はどこから調達されるかと言うと、現状では、「国家」、「市場」、「共同体」の三者の折衷である。例えば、市場主義化への対応としてのグリーン・ツーリズムは、地域の主体性=共同体に依拠しつつ政策的=国家的に推進されている…)。
そこで維持される農業は、今日のシンポでも言われていたように、日本人が日本人のために行なう「閉じた」日本農業ではなく、資本と労働力の自由な移動に基づく「開かれた」日本農業になるのかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。僕にとっては農業の担い手の国籍がどこであろうと関係ない。問題は、地方であれ国家であれ地域(アジアとかヨーロッパとかの範囲)であれ、そして世界単位であれ、同じである。農業は社会にとって何か?

それにしても、学会への行き帰りに通勤・帰宅ラッシュに巻き込まれるのはちょっときつい…。慣れていないだけ、と言えばそのとおりだけども。
 
訳あって実家(新潟)に帰っていた。
そうしたら選抜高校野球で新潟県勢が初勝利。これまで新潟県代表だけが一度も勝ったことがなく、1996年に「初得点」、2003年に「初タイムリーヒット」を達成。しみじみ悲しくなる。

試合翌日の新潟日報スポーツ欄には巨大な見出しがついていた。サッカーW杯で日本が優勝するのでもないかぎり、これほど大きな見出しはつかないのではないか、というような。
多くの新潟県人にとっては、先日のWBC日本優勝よりも嬉しかったのではなかろうか。
二回戦にも期待。
 
あまり本を読めていない。論文執筆がはかどらず、そっち方面の文献は目を通しているけども。今月は色々予定が入ってほとんど時間を取れないので、読書も論文も4月以降に期待、ということになる。急ぐことはないけれどもあんまりのんびりやっていても…。

しかし、仕事がはかどることと、「その仕事だけに集中する」こととは、必ずしも一致しないのではないか。と思う。

集中力というのは不思議なもので、昨日がんばったから今日はダメ、あるいはその逆、といったようなゼロサムにはならない。つまり集中力の全体量があらかじめ決まっていてそこから必要な分を取り出してくる、というよりも、集中するまさにそのこと自体によって、新たなリソースが調達される。

要は「集中」とは脳の運動能力を最大限引き出すことだから、普段からトレーニングで鍛えておかなければ、肝心なときにうまく機能してはくれない、ということだ。もちろん、その方向性とか柔軟性といった要素が、たんなる運動能力以上に重要なのだが。まあそういう意味で、忙しいとき・あせっているときにこそ、関係のない本(小説とか)を読むべきなのかもしれない。

さて、論文を書くために文献を読んでいると、「もう知っていること」がたくさん出てくる。というか、ほとんどそればっかりだ。以前はそういう文献を読むのは時間の無駄では?と思っていたが、これは全然違う。料理の比喩を使うとわかりやすい。ダイコンを食べたことのない人はほとんどいないと思う。じゃあダイコンを使った新しくオリジナルな料理は作れないかというと全くそんなことはなく、使い方・工夫の仕方で驚くべき・前代未聞の・それでいておいしいダイコン料理が可能(なはず)だ。「素材のよさ」ばかりをいたずらに求めてもしょうがないのであって、(これは高橋源一郎が言っていることらしいけど)「ありあわせ」の材料から何を作れるか?が、クリエイターとしての才能を表すのだと思う。

ということはオリジナリティとは、「全く違う」ではなく「似ている(似て非なる)」という属性によって表現されるべきだ(理系だとまた違うかもしれないが)。まあそもそもオリジナリティなんて狙って生まれるものではない。自分が思いもしなかったからこそ「オリジナリティ」なのであって、あらかじめ想定された(「想定内」の)オリジナリティなど原理的に存在しない。

あと「もう知ってるよ」という内容の本を読むことの重要性はもう一つあって、その本を読んでいる間は、少なくともその間だけは、その本の扱っているテーマについてあれこれ考えている、ということだ。それがいかに取るに足りない行為に感じられても、だ。同じことに取り組み続けることなしに、成果はありえないのだから。
 
ノルウェーでの珍事。
蛇口から出てきたのはなんと…。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060314-00000332-reu-ent

「まるで天国」と思いすかさず飲んでみた、という女性のコメントには笑ったが、そのあとの記事を読んで納得。それだけ高けりゃつい飲むかもな。

ところで愛媛では蛇口からオレンジジュースが、日本ではみそ汁が出る、というのは本当でしょうか。後者に関しては25年間一度も経験してないんだが。
 
ノロウイルスが原因と思われる体調不良は、医者の予測どおり、薬と休養であっさり治ってしまいました。コメントくれた方々、どうもありがとう。

さてたまには本のレビューを。社会学者N.ルーマンの本を、はじめて一冊読みきった。『信頼 社会的な複雑性の縮減メカニズム』(大庭健・正村俊之訳、勁草書房、1990年)。図書館で借りて読み進むうちに、やはり買わねば、との思いが高まる。記述は難解だが、ルーマンの言わんとしていることは、難解さとは全く無関係に、腑に落ちた気がする。

たとえば次のような部分。

>信頼を実際に示すためには、さしあたりまずキッカケがなければならない。(中略)…その者は、自分の振舞をとおして状況に関わり、信頼が裏切られる可能性に自らを曝さねばならない。換言すれば、その者は、先に「リスクを賭した前払い」と呼んだことを行なわなければならないのである。
(77ページ)

>したがって、信頼への準備の問題は、不確実性を減少させることによって、それ相応に確実性を上昇させることにあるのではない。むしろ逆に、確実性を犠牲にして、担いうる不確実性を上昇させることにある。
(147ページ)

つまり信頼関係が生じるためには、一度、相手が自分を裏切りうるような状態を経験し、それに賭けることが、不可欠の条件だ、ということである。

>このように、不信もまた生活態度を単純化しているのであり、それが劇的な単純化をもたらすこともしばしばである。不信を抱く者は、多くの情報を必要としているが、同時に自分があえて依拠しようとする情報を狭めてもいる。この者は、より少ない情報により強く依存するのである。
(132~133ページ、強調部分は原文傍点)

僕は、肝心なところで、人や社会を、信頼できていない(しようと思ってもなしえない)、という気が常にしている。それが、おそらく、僕が今後(もうすでに?)直面するであろう問題の、核心のひとつになっていくように思う。そういうときに、上で引用したようなルーマンの洞察が、何がしかの指針になる…かもしれない。

『信頼』についてはまだたくさんの興味深い点があったので、折をみて触れたい。本当は昨日のうちに図書館に返さなければいけなかったんだが…。
 
火曜日の朝、目が覚めると軽い吐き気が。
午前中は寝てよう、と思うそばから気分はどんどん悪くなる。
何度か嘔吐。
昼頃にはピークに。横になっても起き上がっても辛くてしょうがない。熱は出るし頭も痛い。

3時になって這うように医者に行ったら、「ノロウイルスだね、最近流行っているよ」。
生の貝類から感染するらしい。食べてないんだけど。
もしかしてファミレス(月曜の夜に行った)の調理場を経由して二次感染?
などと疑っているうちに、どうにか起き上がれるようになり、ブログを書けるまでに回復。やれやれ。
 
「ねこのみせ」に行ってきました。
今回が2回目の訪問。
(「ねこのみせ」とは何か?→ググればすぐヒットします)
実は、mixiの自己紹介写真は、初めて行ったときに撮った写真です。

ところで作家の町田康は、道で見ず知らずの猫にもつい夢中になってしまう自分自身について、次のように書いている。

>それまで、世の中に面白いことなどなにひとつない、とでも言いたげな渋面をつくって歩いていたおっさんが突如として地面に手を突き膝をつき、可愛いなかしこいな、などと阿呆のごとき声を出すのである。これを見ていた往来のひとが自分のことを、おかしげな人、ファンシーな人と評価・判断するであろうことは容易に想像せられる。(『猫にかまけて』9ページ)

僕も、まあ、これと似たようなものだ。
しかし元来喉や鼻が弱いためか、30分くらいいると鼻がグズグズになってくる。
デジカメは電池切れで使用できず。
こうした厳しい状況のもと、正味一時間半、猫と触れ合い、戯れ、猫分を摂取。またなんとか2枚の写真をとってきました。

仔猫を含め十数匹の猫がいるのですが、僕のお気に入りは「姫猫」と「黒猫」。二人ともとにかくマイペースで、おもちゃなんかには見向きもしない。それでいてときおり見せる愛想と食い意地がなんともいとおしい。

「ねこのみせ」は、猫好きだけど家では飼えない人にとって、素晴らしいお店です。ただ、「猫と遊びたい!!」という欲望を全面に出していくと、猫にとっても店(スタッフ)にとっても他のお客さんたちにとっても、そして自分自身にとってもいい結果を生まないかもしれません。本や漫画(店にあります)を読んだり、飲み物を飲んだりしながら、「猫のいる空間(ないしは時間)」を楽しむ、というのが、みんなが幸せになれる楽しみ方のような気がします。

というわけで、たった2枚の写真のうちの1枚。
ピンぼけですが。
眠る猫たち
 
生産調整・耕作放棄と、米でもコーヒーでも基本的な問題構造は同じ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060302-00000012-maip-bus_all

それにしてもスターバックスはうまくやっている。
ブラックコーヒーに関しては、某喫茶チェーンDのほうが好きだが。Dも最近は分煙化が進んでいる。吸わない派にとってはうれしいけれども。

某レンタルチェーンTで借りてきた映画「コーヒー&シガレッツ」、まだ途中までしか見ていないけど、なかなかおもしろい。見終わったら感想を書くかもしれない。
 
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