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テレビ東京で放映中。平野早矢香は強いね。
男子の試合も見たい。松下とか、どんな感じなんだろう。大ベテラン。僕が卓球を本格的に始めた年の全日本で優勝して、いまだに現役というのは結構すごい。
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僕は「タネ系おつまみ」が好きである。
「タネ系おつまみ」とは、ピーナツ、クルミ、アーモンド、カシューナッツなどを指す(いまそう決めた)。
どのくらい好きかというと、ウイスキーのおつまみとして「タネ系おつまみ」を食べているのではなく、「タネ系おつまみ」を堪能するためにウイスキーを飲んでいるのではないか、とときおり自分を疑いたくなるくらい、好きである。

新潟銘菓「柿のタネ」を食べるときは、柿のタネを尻目にピーナツばかりをむさぼり食う。
と言いたいところだが、それは少しばかりみっともないのではないか、という自制心が働き、柿のタネ2つにピーナツ1つの割合で食べてしまう。
こういう遠慮というか妥協ばかりしていると、死ぬ間際に後悔するような気がするが、みっともない姿をさらして生きてる最中に後悔するよりは少しはましなのではないか。そうでもないか。わからん。ご意見募集中。

ところでアーモンドの花や種をご存知だろうか。
こんな感じらしい。
http://iidaworks.wablog.com/9.html
長野県飯田市。
あれ?
ぱしもんさん・shumittさんが以前いたとこ(に近いん)だっけ?
 
梅田望夫『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』(ちくま新書)。
FirefoxやOpenOfficeなど、オープンソースのソフトウェアが身近な存在になっている。そうしたオープンソース化の背景に、驚異的な速度で進む技術革新(によるコスト低下)がある、という論旨が興味深かった。情報通信コストが高い状態では「情報の独占」が有効な戦略だが、コストが徹底的に引き下げられると逆に「情報の共有」が有効になる。これは人間関係にも当てはまると思う。

玉真之介『グローバリゼーションと日本農業の基層構造』(筑波書房)。
日本農業の直面する状況を、70~80年ぶりの現象である「デフレ経済」という観点から読み解く。面白いと思ったのは、日本の過去のデフレ期(松方デフレ、日露戦争後の不況期、第二次大戦前の昭和恐慌期)のいずれにおいても、地方在来産業(つまり地場産業)の育成や副業奨励といった農業政策が採られていた、という点。これは、農村が「生活の場」であることを強調している新基本法(1999年施行)第5条と重なり合う。玉によれば、「生活の場」としての農村という「歴史的性格」は、インフレ期には捨象され、農業は都市部の食料供給という面からのみ位置づけられる。ただ、玉はデフレ期の「生活の場としての農村」を強調するあまり、インフレ期の「食料供給地としての農村」を否定しているかのように見える。これには違和感がある。双方を農村の本質的な性格と見るべき。

斎藤精一郎『現代デフレの経済学』(PHP新書)。
デフレつながりでもう一冊。ケインズ的政策でも新自由主義的市場万能でもデフレからは脱却できない、という前半の現状分析は興味深かったが、ミクロな経済単位(家計と企業)における徹底的な改革を、という後半の対策提示はやや退屈。

宇佐美繁『環境創造型農業の形成』(宇佐美繁著作集Ⅴ、筑波書房)。
まだ最終部だけ。従来の農業構造分析に立脚する以上、悲観的な結果が出ることは目に見えている。別の分析視角がありうるのではないか―。これを「ヘタレ」と見るか、それとも「思考の飛躍」と見るか。

ルーマン『社会システム理論の視座』(木鐸社)。
まだ最初の章だけ。学は「対象」によってではなく「何を主題とするか」によって成立する。リンゴが木から落ちるとき、物理学は万有引力の法則を、生物学は果実の成熟を、文学は何がしかの表現を、経済学はリンゴの価格評価を、法学はリンゴの所有権を、それぞれ引き出す。

藤原正彦『国家の品格』(新潮新書)。
成り行きで買った。部分的にはうなずける部分もあるが、出発点と到着点の「間」が謎。出発点はわりと共感できるのだけれど。なぜ「情緒」や「武士道」へ行ってしまうのか。論理の最終的・究極的な自己破綻と、「つたない論理」のもたらす弊害とを、一緒くたにすべきではない。
 
年度始め。
色々な行事があって、その関係で飲み会も多い。
やっぱり一緒に飲むのは友達がいちばんいい。

それにしても最近、明らかに酒に弱くなっている。
ビール中ジョッキ2杯と焼酎(ロックまたはお湯割り)3~4杯、これでもう翌朝はややぼーっとした状態で目覚めることになる。
以前はこんなことはなかった。
もっとも飲めたと思われる20歳前後の頃は、いくら飲んでも、ペース配分さえ間違えなければ次の日に支障が出ることはまずなかった。

仲間内で「伝説」として語り継がれている飲み会がある。
地元出身で東京に出てきている5人が新宿に集まり、飲み放題100分1000円の店で飲みまくった。
準備運動に中ジョッキ3杯。
その後は熱燗2合×5本の注文を数回繰り返した。
終了15分前、店員がやってきた。
「最終オーダーの時間です」
「熱燗8本で」
そのとき店員は、明らかに「どうせ飲みきれないくせに…」という表情を浮かべた。
ややあって、テーブルには8本のお銚子が並んだ。1升と6合である。
それを5人でぐいぐいと飲んでいく。
10分ほどで酒はなくなり、
「じゃあ出ようか。店員さん、お会計!」
疑わしげな表情の店員が、テーブル上の8本の空のお銚子を確認したとき、彼(彼女だったかもしれないが)は呆れと驚きの表情を同時に浮かべた。
その後当然のように二次会に行き、最終的には友達の家に泊まった(もちろんそこでも飲んだ)が、誰も二日酔いにもならなかったのは、やはり、若さのなせるわざであったのだろう。

その後、当時のメンバー5人も少しずつ年をとっていき、飲み会の席では、苦労話をしたり、5人同時におしぼりで顔を拭いたり、鳥の唐揚などには目もくれずにアンキモを注文したりと、着実におじさん化してきているのである。
 
辺見庸『自分自身への審問』(毎日新聞社2006年)

この本の主要な部分―「第一章 死、記憶、恥辱の彼方へ」「第五章 自分自身への審問」―は、インタビュー形式をとっている(実際にインタビュアーがいるわけではない)。

しかし、形式上とは言え、インタビュー(を通して語られる言葉)は、異様な印象を与える。

第一章では、インタビュアーは冒頭でしか発言しない。その後は延々と著者自身の言葉が語られる。インタビューというよりは、講演に近いだろう。第五章は、会話的な、それゆえインタビューとしては通常の形式の記述である。しかしインタビュアーは、通常のそれではなく、「審問する者」である。「審問する者」は次のように語り始める。

> ―うふふふ、どうだいご気分は。右手、右足は麻痺、左手は点滴の管につながれて、ろくに歩けず、書けず、右手で尻もぬぐえない……見る影ないな。まったく、ざまがないとはこのことだ。
(中略)
かくいう俺様は、うふふふ、誰あろう、お前自身である。
―それでは問う。
(137-139ページ)

薄気味悪い笑いを浮かべる「自分自身としての/自分自身を審問する者」に答える形で、著者の言葉が語られていく。なお「笑い声」は、この本で一貫して現れるイメージである。政治的問題にシニカルな反応しか示さない社会を、辺見は、「くっくっくっ…ふっふっふ…」という笑い声で表現する。

それにしても、なぜ、このような奇妙な記述の形式を、辺見は取らなければならなかったのか?とくに第一章では、インタビュー形式がほとんど無意味なものに思われる。

辺見は2004年3月、新潟での講演中、脳出血で倒れ、右半身に不自由を負った。その後、癌を発病する。一時は、批評を含む言語的活動への復帰困難さえ示唆される状態だったが、パソコンを左手で打つことによって、この本が書かれた。第五章は、癌手術の前後に病室で書かれたものであり、「審問」は手術による中断をはさんで続いている。

辺見は、繰り返し「自死」について触れている。私と確定死刑囚の違いは一点しかない―後者においては「外部から」、具体的には国家によって死が与えられることになっているのに対し、前者においては「死」へのポジティブな可能性、自ら生の断絶を執行する余地が残されている(なお癌の手術後、自死への誘惑はやや薄れた、という)。つまり辺見は、「未だ自死を決行していない状態」として、生を享受している。

辺見は「医師に声帯を抜いてもらおうかと考えた」ほどに、「わめきつづける」自らの性(さが)を、呪っている。「だが、私は結局わめきつづけたのだった」。

> 何という大ばか者だろう。私はロボトミー手術でも受けて、伊豆かどこかの陽当たりのいい別荘地あたりでニコニコ笑いながら余生を生きればよかったのだ。無農薬野菜を食い、コレステロールと塩分の摂りすぎに注意して、血圧コントロールを徹底し、ラブラドール・レトリバーを飼い、庭でゴーヤを育て、朝はヘンデル、夜にはバッハを聴き、有事法制が採択されようが、9・11が起きようが、バグダッドが爆撃されようが、クラスター爆弾が子供の頭を西瓜のようにかち割ろうが、自衛隊派兵が決まろうがどこ吹く風と、誰に対しても笑顔を絶やさず、憲法改定の動きには「困ったものです。この国はこれからどうなるのでしょう」くらいは空々しくいってみせ、早寝早起きと犬連れの散歩を敢行、定期健康診断をしっかり受けて、眠剤がわりに『失われた時を求めて』を一日たった三十頁だけ読んではうとうとと眠りにつくような日々をなぜ送れなかったのだろう。
(163-164ページ)

これはたんに、読者への反省を促すため(だけ)のアイロニカルな表現ではない。辺見の偽らざる苦渋が、ここにはある。

以上からわかることは、この本では、「語ること」の基盤―生きること、「わめく」こと―が、不安定なままに放置されている、ということである。つまり、この本で辺見が語っているという事実は、「なかったかもしれない」事実である。

こうして、なぜインタビュー(審問)という形式が取られたのかが、明らかになる。たんなる記述は、すでにある、すでに書かれたものとして、読者に受け取られざるをえない。これに対し、会話の一種であるインタビュー(講演、審問)は、常に中断される可能性にさらされている。ここで、辺見が講演中に倒れ、第五章にも手術による中断がある、という事実を思い起こすことができる。

「身体」の変調による語りの中断。これこそが、辺見の伝えようとしたことではないか。
 
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