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新井英樹「The World is Mine」を読了。ネタバレ有り。

息もつかせぬ展開でいつの間にか息切れしている、という作品。結構好きだけど。好みの分かれる作品の代表格、と言ってもおおげさではないだろう。後半での「どんでん返し」はない、と思っていたが、最終巻でどんでん返された。

運命は必然であって必然ではない。必然のように見えるのは、必然であるように解釈しているからだ。じゃあ、必然は「嘘」かというと、そういうわけでもない。解釈している限り、必然は必然として機能する。しかし、それが裏切られ真相が明るみに出るとき、必然の顔を持っていた事柄が突如、別の表情のもとに立ち現れてくる。「マリア」が実は別人だった、モンとの出会いは偶然だった、爆弾を作ったのも偶然だった、今ここにいるのも偶然だ、……というふうに。

* * *

結末である人が言う「世界はあなたのものだ」。ここでいう「あなた」とは、特定の誰か(このブログを書いている「私」や、読んでいる「あなた」)ではなく、誰にとっても「あなた」であるような「あなた」だ。つまり世界は常にすでに、誰にとっても他律的であるような「あなた」に所有されている=抱かれている。その「あなた」が失効したとき、あるいは死んだとき、世界は終わる(この「終わった世界」での人間の進むべき方向を初めて深く追求したのがニーチェだろう)。人間が生きることの意義について、この「あなた」を紡ぎ出し、さらに次の(世代の/役割の)人たちに伝えていくこと以外、いったい何を挙げられるだろうか。
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最近読んだ本

・馳星周『マンゴー・レイン』
バンコクを舞台にしたハードボイルド(正確にはちょっと違うかも)。空き時間に読むのに最適だった。中盤以降、ちょっとずつ面白くなくなっていったのが残念…。

・村上龍『五分後の世界』
面白かった。でも最近、やっぱり春樹の方が面白いんじゃないかと思い始めてもいる。

・『日本社会科学の思想』(岩波書店 社会科学の方法Ⅲ)
間宮陽介、山之内靖の書いた章が特にいい。シリーズの他の本もパラパラめくってみたけど、このⅢが一番面白そうな感じ。

最近買った本(まだ読んでない)

・藤堂志津子『秋の猫』
完全に季節を外してますが。大学生協で買った。ジャケ買いならぬ猫買い。

・松本善明『妻ちひろの素顔』ほか
この間いわさきちひろ美術館に行ったときに買った。ほかに息子の書いた『母ちひろのぬくもり』とか。

買おうかどうか迷っているマンガ

・『ぷ~ねこ』第二巻
以前一巻を買ったが…微妙だ。しかし猫だ。

間違いなく買う予定のマンガ

・『今日の猫村さん』第二巻
ネコムライスおかわり。今月末発売。


今月は研究が忙しいのであまり読んでません。
 
他大のゼミに参加している。

その大学にいる知り合いの助手の方(この方もゼミに参加している)が、ゼミの前後に「この本持ってます?」と色々な本を出してきてくれた。たいへん優しく物腰やわらかな人で、声を荒げるのを聞いたことは一度もない。

けれども、僕にはこう聞こえた。

「おいお前、今見せたような本も読まずに博士課程とか研究者志望とか、冗談にもなってねぇ。次回までに読んでこい」。

こういうことを、オブラートで何重にも包んで言ってくれる人は、とても貴重な存在だ。と思った。
 
エコツアー推進立法制定に向けた動きがある。詳しくはこちらを。

http://www.asahi.com/life/update/0511/005.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060304-00000018-kyodo-pol

エコツアーとは異なるが、1994年に「農山漁村滞在型余暇活動のための基盤整備の促進に関する法律」が制定された。これは、市町村計画の策定と、「農林漁業体験民宿」の登録制度について定めた法律。「農村休暇法」などと略して呼ばれるが、ある研究者はこれについて「需要側の休暇制度に一言も触れずに『休暇法』とはおこがましい」と指摘した。慧眼である。

日本はILO132号条約を批准していない。ILO132号条約についてとりあえず下記を。詳しくはググってください。

http://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/kanko/vacation/p7.html

こんなのもあった。

http://www.dpj.or.jp/seisaku/koyou/BOX_KO0069.html

本気でエコツアーを推進しようというのなら、今の休暇制度(習慣的な部分も含めて)をまず見直せ。まあどうせ、最初から、海外からの旅行者と、「団塊の世代」を中心とした退職者をターゲットにするつもりなんだろうけど。
 
大学の研究室の部屋移動から1ヶ月。

研究室で使ってたHUB(LANケーブルをつなぐやつ)がガリガリ言っててうるさいので、中を開けてほこりを取り除き、ファンの位置を調整し、静かにしたまえ、と命令したら静かになった。でも次の日にはガリガリ復活。しょうがないので買い替え。ファンレスのやつにした。静かで快適。数千円。

研究室のある建物は、上から見て「日」の字になっている。「日」の真ん中の横棒にあたる部分が5階まであって、他は4階までになっている。4階部分の屋上に、風車が2本立っている。最近、これが回るときの音がたいへんうるさい。正確には、プロペラが回るときではなく、風向きが変わって軸が回転する(プロペラの方向が変わる)とき、ブウゥゥゥ……ンン。という低い音がする(実際に屋上まで確かめに行ってみた)。僕のいる部屋は、片方の風車の真下にある(2階だ)。それでもかなりうるさい。床が振動してるし。ヘッドフォンの音量を上げて音楽聴いてても効果薄。もう限界なので、明日あたり学生課(でいいのか?)に相談に行きます。無料。

いま使っているノートPCは、(冷却ファンではなく)起動中ずっと「ウィーン」と鳴っていて少々うるさい。買ってから4年以上たっている。液晶も一度バックライトが壊れて取り替えた。そろそろ買い替えなのだろうか……。買い替えるなら12万から15万くらいか。

家に帰ると、隣の部屋からいびきが。いびき防止グッズをプレゼントしようかと、本気で考えてみたりする。数百円。

騒音のひどさと、解決にかかる費用は、必ずしも一致しないね。という話。あくまで自分にとって、だが。HUBの数千円は自分じゃ払ってないし。
 
練馬区へアンケート調査の手伝いに行ってきた。「中国産農産物は絶対食わん」「アメリカの農産物は安全そう」といった意見があったようで、どこからこうした意見が生まれてくるのだろうか。などと考えるが、これについてはまたいつか書く。

調査の帰りに「いわさきちひろ美術館」へ。

1.いわさきちひろの描く子どもたちは、みな、無垢である。ただし、それは僕たちが普通に思い描く「無垢」とは、微妙に違っている。笑っている子どももいるが、むしろ、大部分の子どもの表情は、「不安」を表しているように見える。いわさきちひろの描く「無垢」は、喜びや天真爛漫ではなく、「不安」である。

2.この、子どもにおける「無垢=不安」は、何を意味するだろうか。「無垢」とは、何物にも汚されていない状態である。ということは、「無垢=不安」が意味するのは、人間の生の奥底にある、根源的な不安である。

3.そのような「不安」の最たるものは、「私とは誰なのか」という問いである。

4.興味深いことに、子どもはこの問いを、自分自身にではなく、周囲の大人へ、すなわち他者へと問う。たんなる「あんた誰?」や、内省的な「僕って誰?」ではない。赤ん坊は、その泣き声と笑顔を通じて、大人たちに問いかけ、答えを強要する「答えよ、私は誰なのか」。大人は、(知らず知らずのうちに)それに応えることで、子どもの成長を促していく。

5.ところで、いわさきちひろは晩年、次のように語っている(おおよその感じ。原文はもっとずっと格調高く美しい)。

「いまが完璧とは思わないが、過去に戻りたいとも思わない。若い頃に受け入れることのできなかったものを、いまは、少しは愛することができる。欠点だらけの長男、めんどうな夫、半身不随の実母。彼らを愛することができるのは、「大人」になったいまの自分だからこそだ。」

6.不完全であるにもかかわらず、というより不完全であればこそ、自己を、他者を、そして世界を愛する。こうした覚悟を持つに至った人間を「大人」と呼ぶならば、その人こそは(その人だけが)、赤ん坊の「答えよ、私は誰なのか」の問いに答える資格を持つ。双方に共通するのは、不完全さを、あるいは不安を、そのままに受け入れることのできる、ある種の「強さ」である。
 
1日から3日にかけて、房総半島へ行き、いろいろ飲み食いしてきた。地元でとれたイカ、アジなどの海産物がうまかった。

地元の強みである。

地産地消という言葉は「しゃらくせえ」ので好きではないが、うまくて安いものを求めれば、しぜんと地の物に行き着く。

2日は鴨川シーワールドへ。
シャチのショーを見た。とにかくでかい。
シャチショー2

最前列には、水しぶき、ではなく、水のカタマリ(大きめのバケツ数杯分)が容赦なく何度も叩きつけられる。ま、最前列には誰も座らないんだが。

その後、東京からもっとも近い棚田、大山千枚田へ。
大山千枚田

大山千枚田といえばオーナー制度で有名。いくつかレポートを読んだことがあるけど、地域内の意識差や活動の持続性などの点で、問題なしとは言えないらしい。

「感動」や「教育」といった媒体(メディア)で、農林業を持続させるのは、かなり難しいんじゃないか。可能ではあるにせよ。といったことをつらつら考える。

3日は内房線を北上。館山から2駅、「富浦」で途中下車。その理由とは。
猫だパーク1

「コメリ」に来たわけではなく、「猫だパーク(にゃんだぱーく)」へ。100匹の猫が放し飼いにされている夢のようなテーマパーク。

猫だパーク2

こんな感じでみなさん昼寝中。ねむいねむい。

特に大きな目的のない、よい旅でした。
 
久しぶりにぞくぞくしながら本を読んだ。
加藤典洋『日本の無思想』平凡社新書。
面白いと思った点は多々ある。
とりあえず一点だけ。
外部からの「異なる神」を迎えるときの、口をつぐんだ無言の抵抗。この経験が、日本社会の基底にある。
それから、思考のテクニカルな点。
オリジナリティとは、新しいことを言うことではない。以前から言われてきたことを、新しく聞こえるように言い直すこと。これは前も書いたかな。

ここからはちょっと研究の話。
今年に入ってから既存研究整理の作業に区切りをつけるべく論文を書いてきて、まだ終わらなくて、さあて困ったなと思ったりして、先生から「あせってもいいものは書けない」とのお言葉まで賜って、明日から3日間出かけるのでその間作業は中断で、でもようやく見通しがついてきて、5月中に投稿にこぎつけたいとは思っている。
この間、ずっと感じてきたのは、どこを目的地にして、どこから出発すべきなのか、ということ。さらに言えば、なぜ私は「今・ここで・この課題に」取り組んでいるのか、ということ。
実存的な問題と言ってしまえばその通りなので、ブログ上で話題にすることじゃないかもしれない。
ただ、実存的問題に回収しきれない問題もあるのかな、と。アカデミックな領域での問題。
一言でいえば「今の農業経済学ってどうよ?」ということだ。
タマゴ段階でこんなことを言うのはおこがましいとは思う。
しかし、失礼を重ねて言うならば、今50代、60代の研究者はこれまでのフレームの中でちょこちょことやっていけばいいだろうが、20代の私にとっては、学問の「持続可能性」に対し敏感にならざるをえない。
今の農業経済学を、議論の出発点や目的地に設定することに対し、私はメリットをあまり見出せない。経由地(ツール)として用いるなら別だが。
じゃあどうすんのよって話になるけど、さしあたっては農業経済学のフレームのなかで議論を進めることになると思う。その上で、社会科学全般を視野におさめつつ、自分の立ち位置を確認していく作業が、どうしても必要になる。
以前は留学を考えていたけど、今は(留学も含めて)「無駄な時間」を過ごすという選択肢が重要じゃないか、と考える。「無駄」というのは、今自分のコミットしている対象からいったん距離を置いて色々な本を読み、色々な経験をする、もっと自由に、ということ。
……結局は実存的になってしまった。

見ればわかりますが、デザイン変えました。
とくに意味はありません。
「無思想」です。
 
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