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練馬区へアンケート調査の手伝いに行ってきた。「中国産農産物は絶対食わん」「アメリカの農産物は安全そう」といった意見があったようで、どこからこうした意見が生まれてくるのだろうか。などと考えるが、これについてはまたいつか書く。

調査の帰りに「いわさきちひろ美術館」へ。

1.いわさきちひろの描く子どもたちは、みな、無垢である。ただし、それは僕たちが普通に思い描く「無垢」とは、微妙に違っている。笑っている子どももいるが、むしろ、大部分の子どもの表情は、「不安」を表しているように見える。いわさきちひろの描く「無垢」は、喜びや天真爛漫ではなく、「不安」である。

2.この、子どもにおける「無垢=不安」は、何を意味するだろうか。「無垢」とは、何物にも汚されていない状態である。ということは、「無垢=不安」が意味するのは、人間の生の奥底にある、根源的な不安である。

3.そのような「不安」の最たるものは、「私とは誰なのか」という問いである。

4.興味深いことに、子どもはこの問いを、自分自身にではなく、周囲の大人へ、すなわち他者へと問う。たんなる「あんた誰?」や、内省的な「僕って誰?」ではない。赤ん坊は、その泣き声と笑顔を通じて、大人たちに問いかけ、答えを強要する「答えよ、私は誰なのか」。大人は、(知らず知らずのうちに)それに応えることで、子どもの成長を促していく。

5.ところで、いわさきちひろは晩年、次のように語っている(おおよその感じ。原文はもっとずっと格調高く美しい)。

「いまが完璧とは思わないが、過去に戻りたいとも思わない。若い頃に受け入れることのできなかったものを、いまは、少しは愛することができる。欠点だらけの長男、めんどうな夫、半身不随の実母。彼らを愛することができるのは、「大人」になったいまの自分だからこそだ。」

6.不完全であるにもかかわらず、というより不完全であればこそ、自己を、他者を、そして世界を愛する。こうした覚悟を持つに至った人間を「大人」と呼ぶならば、その人こそは(その人だけが)、赤ん坊の「答えよ、私は誰なのか」の問いに答える資格を持つ。双方に共通するのは、不完全さを、あるいは不安を、そのままに受け入れることのできる、ある種の「強さ」である。
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