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※以下の文章は、引用や明示的に論旨を追っている箇所を除き、当ブログ執筆者であるQwabaraが本からインスピレーションを得て書いた主観的感想です。


マックス・ウェーバー『職業としての学問』尾高邦雄訳、岩波文庫、改訳1980年(初版1936年)

ウェーバーが1919年に行なった講演の記録。

「大学の卒業生が卒業後大学に残って職業的に学問に専心しようと志すばあい、かれは現在いかなる事情のもとにおかれているか」(9ページ)の問いかけから始まり、研究者にとって必要な心構えを説き、「自分の仕事に就き、そして『日々の要求』に――人間関係のうえでもまた職業のうえでも――従おう」(74ページ)と結ぶ。

◇学問をするとはどういうことか? ウェーバーは、研究者を志す者は二つの「僥倖」に寄りかからねばならない、と言う。ひとつは、研究者としての地位(正教授)を得られるかどうかはめぐり合わせや運次第であること。もうひとつは、思いつき(「霊感」)を得られるかどうかもまた、運次第であること。

むろん、思いつきが生まれるためには、情熱と作業が必要である(「一般に思いつきというものは、人が精出して仕事をしているときにかぎってあらわれる」24ページ、「穿鑿や探求を怠っているときや、なにか熱中する問題をもっていないようなときにも、思いつきは出てこない」25ページ)。

ただ、思いつきの生まれる瞬間にかぎって言えば、素人も専門家も変わらない。素人と専門家を区別するのは、「与えられた思いつきについてその効果を判定し、評価し、かつこれを実現する能力」(24-25ページ)の有無である。

こうしてウェーバーは、一方では霊感を得るための「僥倖」が必要であると述べ、他方では霊感を「判定し、評価し、実現する能力」の必要性を説く。ここでウェーバーは何を言おうとしているのか。

ウェーバーは、こんにちの学問の専門分化の傾向を否定することなく、むしろそこに内在せよ、と言う(「学問に生きるものは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここにのちのちまで残るような仕事を達成したという、おそらく生涯に二度とは味わわれぬであろうような深い喜びを感じることができる」22ページ)。つまり、「これ」と思うものに情熱を傾けよ、ということである。これなしには霊感の僥倖も、それを生かす能力も、得ることはできない。

◇それでは、専門化した学問に閉じこもることは、どんな意味を持つのか。

ひとつには、「技術上の諸目的」(31ページ)の達成のため、という意味がある。しかしこれは実践的な意義であって、学問じたいの意義ではない。ここでは学問は手段にとどまっており、職業として選ぶ積極性を与えられてはいない。

では、学問は「それ自身のためになされる」(31ページ)のだろうか。 ある意味ではそうであろう。しかし学問は常に社会の変化とともに時代遅れになっていく。それでは学問に意味などないではないか?

ウェーバーは、学問の進歩とは、「主知主義的合理化」の過程である、と述べる(32ページ)。主知主義的合理化とは、平たく言えば「知によってよりよく生きる」ということであるが、それは必ずしも、「あらゆる物事に関する知識を持つ」ということとは一致しない。われわれは電車の動く仕組みを詳しく知らずとも、「数百円を払って切符を買い、表示に従ってホームへ行き、目的地行きの電車に乗る」ことができる。何ら神秘的な力を想定することなく身の回りの事物のはたらきを予想しうること、欲すればその機制を知ることができるということ、これこそが主知主義的合理化である(33ページ)

しかし学問は、いまや神とは没交渉である(41ページ)。学問によって自然の真相を明らかにする、といった態度は、現代ではむしろ冒涜的なものに感ぜられる(39ページ)。現代の学問は、プラトン的啓蒙(洞窟の中での鎖からの解放)から遠くかけ離れた地点にある(36ページ)

であれば、学問のもつ意味は相変わらず不明瞭である。驚くべきことにウェーバーは、それでいい、と言う。学問は、それじたいが寄って立つ前提について、何事も答え得ない。

「それ(自然科学の想定する、最後の宇宙の法則)がはたして知るに値するかどうかは、これらの学問みずからが論証しうべき事柄ではない。いわんや、これらの学問が対象とする世界がそもそも存在に値するかどうかということ、またこの世界がなにか『意味』をもつものであるかどうかということ、さらにこの世界のうちに生きることがはたして意味あることであるかどうかということ、――こうしたことにいたっては、もとより論証のかぎりではない。」(44ページ)

◇宗教的価値から通俗的な価値感にいたるまで、こんにちの社会で「価値」と呼ばれるあらゆるものは、相対的である。こちらが神なら、あちらは悪魔。逆もまた真。こうした状況は、イデオロギーの論争から日常の何気ない出来事まであらゆる局面を貫き、絶えることがない。現代において、かつて人びとを結びつけていた崇高な「予言者の精神」は、ミクロな人間関係のなかで最微音(ピアニッシモ)を脈打つのみである(72ページ)
ウェーバーは、こうした状況から目をそらすな、直視できるほどに強くあれ、そしてこの時代の宿命を引き受けよ、と呼びかける(57ページ、72ページ)

おそらくこのことが、そしてこれだけが、あらゆるものが相対化される社会において、日常的にも学問的にも生き延びていく唯一の方法である。この意味において、われわれは、まだウェーバーと同じ時空を生きている。
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ジジェク『否定的なもののもとへの滞留』、ようやく読み終わりそう。大学院での研究の方が色々な意味で佳境を迎えつつあるので、息抜きが必要なのだが、昼寝やW杯観戦など「下向き」の息抜きだけじゃなく、(ジジェク本をレビューする、といった)「上向き」の息抜きもまた、ときには必要だと思う。というわけで、内容レビューと簡単な感想を、断片的に書いていきます。近日公開。
 
<昨日買った本>

・環境省編集『エコツーリズム』日本交通社

神田三省堂にあったグリーン・ツーリズム、エコツーリズム関連本の中で、読んでいない&面白そうだったので購入。

・長谷川昭彦・重岡徹・荒樋豊『農村ふるさとの再生』日本経済評論社

タイトルはちょっとアレだが、内容は豊富そう。

・山村順次『新観光地理学』原書房

吉田春生『エコツーリズムとマス・ツーリズム』と同じ、原書房の本。「付章」として観光地調査法の説明があるのがよい。

・新宮一成・立木康介編『フロイト=ラカン』講談社選書

ちょっと読んだが、うーん。思ってたほどではない。「遂行的」な記述じゃないからかも。理論を外からうまく説明してはいるんだろうけど。

・ブルデュー『社会学の社会学』藤原書店

これはいいかも。インタビュー集のような本なので、わりとすいすい読める。それでいて、内容が薄いというのでもない。

・ほしよりこ『今日の猫村さん』第二巻

最初、付録つき版(湯けむりバージョン)を買おうとしてレジに持っていったら2300円だったので、通常版(1200円)に変えてもらった。電車の中でこそこそ読み、こそこそ笑った。
 
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