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ドストエフスキーの処女作。男女の往復書簡形式で展開されるモノローグ的な会話は、その後の作品でも一つの基調になっている。それはとても自閉的に思える。当初は他愛ないおしゃべりといった趣だった往復書簡の文面は、次第にすれ違い始め、最後には届かない対象への語りかけへと帰着する。他者とのコミュニケーションは、やがて果てしない自己言及への沈潜に至る。

しかしそれでもドストエフスキーの登場人物は語ることをやめない。むしろより余計に、より無益に語り続けようとする。それを支えているのは他者への、あるいはコミュニケーションへの信頼というよりは(そういう捉え方も間違ってはいないのだろうが)、語ること自体にひそむある種の快楽、ないし自己形成的な機能であるように思われる。それはあるとき他者へ思いもかけぬ仕方で届くのかもしれない。
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※ネタバレあり

とうとう同年代の作家が三島賞を取った。そういう時期になった、ということだ。本屋に行って「佐藤友哉」を探し、目についたものをとりあえず一冊買ってみた。『クリスマス・テロル』。

これは佐藤の何作目かの作品である。それ以前の作品(『水没ピアノ』など)は重版にならず、そのため本作で執筆打ち切りになる予定だったらしい。いわば「背水の陣」で書かれたわけだ。あとがき代わりの終章では、これで執筆活動を終えますと宣言され、周囲の人への感謝などが述べられている。

この終章は、物語の内容と関係ないように一見思われるけれども、実は深く関わっているのではないか。

物語は「記憶」をめぐって展開される。主人公の女の子はふとした事情から人口数百人の離れ島にたどり着く。そこで出会った主人公とほぼ同年齢の少女は、次第に記憶が失われるという病に冒されており、主人公と彼女は記憶を取り戻せるようにある約束をするのだが、結局は破局を迎える。

これだけであれば大した物語ではないのだが、ここにもう一つの主題、「書くこと」が関わってくる。

作中、主人公は、とある男を監視している。男は来る日も来る日もパソコンに向かい何かを打ち込み続け、ある日突然、密室から消えてしまう。最終的に、主人公はその男を発見し、また消えた理由についても了解するのだが、それは主人公にとって何ものももたらさない。主人公は、残された男のパソコンを破壊するだけである(そこに保存されているはずの物語は開示されない)。

興味深いことに、少女が男を発見するのは、なんと二ヶ月(!)に渡る昏倒から目覚めた後である。物語の「解決編」は、その二ヶ月の間に済んでしまったとされ、物語中では一切その内容が書かれない。

男のパソコンには、この空白の二ヶ月間(というより、物語世界における謎)に関わる記述が含まれているはずだ。少女はそれを知らない。また、知る機会を拒絶する。書かれた(はずの)内容は、決して表に現われない。書いた男は、民家の一室に引きこもってしまう。

といって、作中の男と、作家とを重ね合わせてみるのは的外れだろう。佐藤が書こうとしたのは、「書くこと」が普遍的にはらむ何かである。それは「記憶」に関わっている。記憶されない文章は、果たして存在していると言えるのだろうか?
 
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