上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 
オックスファム・インターナショナル著
日本フェアトレード委員会訳
村田武監訳
『コーヒー危機 作られる貧困』筑波書房2003年

コーヒーを飲みながらこのレビューを書いている。

コーヒー危機とは何か?
多国籍企業の支配のもとで、途上国が一次産品生産へと特化させられるなかで生じる、生活と産業の危機。さしあたりこんなふうに理解しておくことができる。

---------------------------

「コーヒー危機」の要因は、近年におけるコーヒー豆価格の乱高下である。背景には、生産拡大および需要停滞による、供給過剰がある。過剰基調のもとでの、1989年の市場管理機能停止―国際コーヒー協定(ICA)の破綻―が、価格の乱高下を呼び込んだ。
この影響を受け、コーヒー生産現場の途上国農村では、出稼ぎの拡大、食料の不足、教育・医療サービスの低下、季節労働者の条件悪化などがおきている。

本の後半部では、「希望の光」としてフェア・トレードがあげられる。フェア・トレードの機能、生産者への十分な支払い、環境負荷への配慮、多大なマージンを得ている焙煎企業への圧力は、一次産品生産に特化させられている途上国と、先進国の消費者が「つながる」ための有効な戦略なのだ。…

---------------------------

このエントリを書くにあたり、アマゾンのレビューを簡単に眺めてみた。
アマゾンでのレビューの内容は、言葉ごと借りてひとことで述べれば、「知らないことが多すぎる」というものである。
ふだん、何の気なしに飲んでいるコーヒーは、実は、多数のコーヒー生産者や生産地を犠牲にし、焙煎企業の独占的支配のもとで、われわれの手元まで送られてくる(それはふつう知られていない)、というわけだ。

ただし、最近ではフェアトレードに関する情報が多くみられるから、この本で述べられている内容は、必ずしも「知らないこと」ではないかもしれない。

しかしここで気をつけるべきなのは、「ふだんの何気ない行動や習慣の背後には、われわれの知らない『不正義』や『ごまかし』、不合理な『犠牲』が満ち満ちている」という語り方(枠組み)が、環境問題や人権問題などを語るときのステロタイプになっている、という点である。

事実としては、たしかに、上述のような問題構造が存在する。
たったいまここで私が飲んでいる一杯のコーヒー(のために使った豆)は、実は、苦しい生活のなかで心身を痛めつけて生きてきた、世界のどこかのコーヒー生産者が、力を振り絞って人生最後の日に摘み取ったコーヒー豆であるのかもしれない。こうしたことを「知る」ことは非常に重要であり、知らないよりは知っているほうが、世界をよりうまく/適切に理解することに近づけるだろう。

けれども、ここで、「知る」とはどういうことか? という問いを発してみよう。
「知る」、そして「知っていることを語る」ことには、常に、ある制約が伴っている。「すべてを知る(語る)ことはできない」という制約が、である。言い換えれば、何かを知る/語るときは例外なく、「ほかの何か」を知り/語り損ねている。この「ほかの何か」は、原理的に認識しえない。(追記:こうしてわれわれは、常に何かを「知りすぎて」いる。あるいは「知ったような気になって」いる。)

とすれば、何ごとかを認識するときの基本姿勢は、次のようであるべきだ。「知っていることが多すぎる」、これである。何かを知り/語るとき、常に、(ほかの)何が知り/語り損ねられているのか、という問いを発すること。

環境問題・人権問題を語るときのフォーマットという感すらする、「ふだんの何気ない行動や習慣の背後には、われわれの知らない『不正義』や『ごまかし』、不合理な『犠牲』が満ち満ちている」という語り方は、それゆえ、半分の有効性しか発揮しえない。あと半分は、「それでもわたしは何を知らないか」という問いによって、補われなければならない。
スポンサーサイト
 
Comment
  ぱしもん [URL] #6sKKLMP2
たしかに・・・。
環境や人権に関する議論をすると、
ついつい、「不正義」、「ごまかし」、「犠牲」の
傾向が強くなりますね~。
ぶっちゃけ、私もそうですね^^;

それで「何を知り損ねているか」に目を向ける
ということですが、
例えばコーヒーとフェアトレードの場合だと、
そういう切り口からどんなことを語ることが
できるのでしょう?

弱気になるのは、抱えている問題が
あまりに大きすぎて、何かが明らかになるたびに
途方にくれるというケースが多いからです。
前進していく糸口はなかなか見つからない^^;

そうなると、どうしても「不正義」や「ごまかし」、
「犠牲」、なんというか、
「○○という問題があるがどうしたらいいのか?」
という語り方しかできなくなるんだな・・・。
 2006.02.11 Sat 00:41 [Edit]
  Arrivederci [URL] #-
ぱしもんさんコメント&問いかけどうもありがとう。
できうるかぎりで返答をしておきます。

まず、コーヒーとフェアトレードについて、「不正義」「ごまかし」「犠牲」以外の語り方ができるのか?できるとしたらどのような語り方か?という点。

これはもう端的に、僕はそれ以外の語り方を知らない。知っていれば書いている。

でも(このエントリで言いたかったのは)、その「知らない」ことに安住してはならない、ということ。問題を整理/提起することの残酷な側面、あるいはその限界に常に敏感であれ、ということを言いたかった。

ちょっぴり反論めいた言葉で表現すれば、「途方に暮れている自分」を100%信じてはならない。たいへんな問題を前にして途方に暮れるのは非常に倫理的な態度に思えるし、僕自身もそのことは否定しない。でもそこには小さな、しかし決定的な飛躍、問題の見過ごしがあると思う。

こういう姿勢は「現状追認」とか「思弁的」と批判されかねないけど、問題が閉塞的であればあるほど、問題の「外部」ないし「あさっての方向」に目を向ける姿勢を捨ててはいけないと思う。それは、現場から乖離している人(たとえば研究者!!)のほうが、現場で生活している人よりも容易になしうるかもしれない。もちろんそれは、外部の人間は現場を「超越」できる、などということではなくて、たんなる役割分担の問題なのだけれども。

「コーヒー危機」は2003年の出版だから、現在はちょっと状況が変わっているかもしれない。何か情報を得たら、新規エントリで書こうと思います。
 2006.02.13 Mon 14:58 [Edit]






(編集・削除用)

 

管理者にだけ表示を許可
Trackback

http://noyoka.blog49.fc2.com/tb.php/4-ddfd5de1
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。