上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 
見田宗介『現代社会の理論』岩波新書1996年

以前、図書館で借りて読んだ。それ以来、いつか買おう、と思い続けて幾年月。
最近ようやく買った。以下簡単にレビュー。

見田は、消費‐情報社会としての現代社会がもつ「正」と「負」を一望できる視点を、提示しようとする。現代社会の「ゆたかさ」に居直る理論も、その「影の部分」を強調する理論も、一面的なとらえ方でしかない。

(現状分析もひじょうにおもしろいのだが、ここではカット)

結論は、収奪のない消費=「奢侈、消尽、燃焼としての消費」を、「美としての情報」によって実現せよ、である。それは「必要の地平」から離陸した消費‐情報社会を、「生の充溢と歓喜」へと着地させることを意味する。

以下は読書ノート(本の要約)から引用(少し修正あり)。

バタイユは、奢侈、消尽、燃焼としての〈消費〉概念の原的な根拠として〈至高なもの〉を見出した。至高性とは、あらゆる効用と有用性の彼方に出現する、自由の領域であり、彼は「ある春の朝の、貧相な町の通りの風景を一変させる太陽の燦然たる輝き」を例にあげている。これこそが〈消費〉のもっとも純化された形態であり、収奪なしに享受しうるほとんど唯一の消費体験である。収奪が終わるとき、他者や自然は、初めて、他者そのものとして、自然そのものとして存在し始める。

(以下雑感)
この結論の優れた点は、現代社会の手前に立ち止まるのではなく、その果てにおいて可能な社会像を提示している点である。
われわれは、目のくらむような消費と情報のあふれる現実から、目をそらすべきではない。むしろそれを徹底的に・かつ・うまく「利用」することこそが重要なのだ。

しかしそれでも、われわれはいつでもすでに、情報によって拘束されてもいる。
東浩紀の提示する「人間的/動物的」という二層構造は、このパラドキシカルな状況を説明する有効な理論のひとつだろう。
スポンサーサイト
 
Comment
  しみず [URL] #-
なんか、最近ちがう世界にいっちゃってません?
グリーンツーリズムは?
ってふと、おもいました。
O関研よりな気がしなくもない・・
内容についてのコメントはまた次週っ!
 2006.02.19 Sun 21:22 [Edit]






(編集・削除用)

 

管理者にだけ表示を許可
Trackback

http://noyoka.blog49.fc2.com/tb.php/5-871ff3d1
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。